東京高等裁判所 昭和39年(う)1179号 判決
被告人 畑直考
〔抄 録〕
所論は、原審の科刑は情状に照らし重きに過ぎると主張するものであるが、被告人の弁疏は、本件の被告人の所為は道路交通法七二条四項に該当し、同条一項の報告義務違反の刑責を問はれる筋合ではないと主張するものと解せられるので、この点に関する当裁判所の見解を示す。
道路交通法七二条一項は、交通事故により人が死傷し、または物の損壊があつた場合には、先ず何を措いても負傷者を救護するという人命尊重の大前提の下に、また一方、事故による混乱その他危険の防止、交通の安全円滑を図るという前提の下に、当該車輛の運転者は先ず車輛を停め、他の乗務員と共に、負傷者を救護し、かつ危険防止のための緊急措置を講じなければならない、そしてその迅速適正な措置をなすために運転者は警察官に報告しなければならないという義務を課したのであつて、もし運転者が死傷したため、やむを得ないときは他の乗務員が運転者に代つてその報告をなすべきことを規定したものであると解する。ただ同条四項に規定するような車輛を運転する者に右の義務を課するときは、報告のためその運転の本来の目的に却つて支障を来たす虞れのあることを慮り、この場合に限り、運転者に代り他の乗務員にこれらの処置をなさしめ得るよう例外を設けたものであつて、要するにこれらの処置は、事故の責任の有無ないしその所在の如何を問わず、人命尊重、交通安全を図る目的のため、事故に際して、先ず当該車輛の運転者に課せられた義務を規定したものと解するを相当とする。
しかして、同条四項にいわゆる傷病者を運搬中の車輛の運転者に対する報告義務の例外規定は前記同条一項の解釈より演繹して次の如く解せられる。即ち激痛を訴える患者、出血の甚しい負傷者或は出産の迫つた妊産婦等の如く、医師の手当或は病院への収容等に急を要し一刻を争うが如き傷病者等を運搬中、その車輛の運転者が自ら警察官に報告をなすにおいては、その間にその運搬中の傷病者等の容態の変化により、その生命身体に危険をも生ずる虞れのある緊急の場合、即ち当該業務のため引続きその車輛を運転する必要のあるときは、特に運転者はその運転を継続し、報告は他の乗務員をしてこれをなさしめ得ることとしたものであると解せられる。
本件においてこれを見るに、原判決挙示の証拠及び当審における被告人の供述によれば、被告人は当日偶々甲府駅へ行つたところ、改札口附近に一人の女性が踞つているのを発見し、急を要する病人と思い医師に連れて行つてやろうと考え、そのように同女を促して、被告人の車に乗せようとしたところ、同女は医者へ行く程大したことはない。何処か静かな処で休みたいと言うので被告人は医者に連れて行くことをやめ知り合いの定林寺まで連れて行つて休息させるべく、自ら自動車を運転して、甲府駅より自動車で約三十五分(原審証人川久保正朗の証言参照)の距離にある山梨県東八代郡八代町所在の定林寺に赴く途中、原判示場所で原判示の事故を起したものであることが認められる。被告人は急病人を運搬する途中の事故であるから一刻を争う場合であつて、事故の報告より人命が大切であるから、かかる場合には、報告をしなくとも己むを得ないとして許さるべきであるとの趣旨の主張をするが、被告人は前記の如く公判廷で供述するとおり、自動車に前記女性を乗せようとしたとき同女から医者へ行く程大したことはない、静かな処で休みたいと頼まれて乗せたというのであり、また原審証人樋口将子は、被告人は医者へ行こうかと言つたが、そんなに痛くなかつたので黙つていたと証言しているし、また定林寺住職川久保正朗も原審証人として、被告人は娘を連れて来たが、同女は苦しんでいる様子はなく、ただ青い顔をしていた。二、三時間休んで帰つた。との趣旨を述べているのであるから、同女が一刻を争う病人であつたという被告人の主張は被告人がそのように主張弁解するだけで、直ちに採用し難く、従つて本件における被告人の執つた措置は前記道路交通法七二条四項の適用ある場合には該当しないといわなければならない。
次に被告人は事故の相手方たる佐藤広由に、警察へ届けるよう頼んであるから自ら報告しなくても報告義務違反にはならないとの趣旨の主張をしているが、なるほど被告人の司法警察員、検察官に対する供述調書及び原審、当審における公判廷の供述によると、事故後被告人は佐藤に警察官への届出を頼んだことは認められるが、原審証人樋口将子、同佐藤広由の各証言によると、事故現場で被告人と佐藤の二人は十五分位話合つていたまた佐藤は事故を起して車を損傷したことで頭が一杯になつていた折柄、被告人の言つたことは十分理解しなかつたというのであり、また被告人も検察官に対し述べているとおり、佐藤に警察へ報告するよう頼んだが、同人は応じてくれず、逆にその場で泣き出してしまつた。自分が報告すべきであつたと述べている位であるから、被告人が急を要すると考えた病人をそのままにして十分余りも話し合つていたというのも解せないし、また被告人は佐藤に報告方を頼んでも、同人が果して被告人の要求どおり報告してくれるか否か判らないと判断し得た筈であるといわざるを得ない。被告人において警察官に報告することを強いて拒否し、或はこれを怠らんとする意思のなかつたことは勿論、却つてその報告をすべき義務があり、またその報告をしようとする意思のあつたことは被告人の供述により十分これを認めることができるのであるが、佐藤に依頼すれば事足りると判断したことは、前記の如き状況下においては、車輛の運転者として、いささか粗漏であり、交通法規を誤解したとしても軽卒であつたと認められても、やむを得ないものというべきである。
しからば被告人の本件所為は究極においては前記法条所定の報告義務違反を否定することはできないが、その犯情は極めて軽いものというべく、これに対する科刑はその注意を促すだけの法定の最低限をもつて足りると判断される。原判決の量刑はその意味において稍々重いと認められるので所論は結局理由がある。
以上のとおり本件控訴は理由があるから、刑事訴訟法三九七条一項、三八一条により原判決を破棄し、同法四〇〇条但書に従い更に被告事件につき判決する。
原判決が適法に確定した罪となるべき事実に、原判決摘示の各法条を適用し、被告人を罰金一、〇〇〇円に処し、これを完納することができないときの換算額を金二五〇円を一日と定め、原審及び当審における訴訟費用は被告人をしてこれを負担せしめ、主文のとおり判決する。
(三宅 寺内 谷口)